現代社会って、境遇によって見ているものがかなり違うパラレル的なところがある、と思っている。
電車乗ったり街中歩いたりすると、不愉快な思いもするけど、自分と違う要素を持つ人の存在を思い出すことができる。頭の中で概念だけだった存在に顔がつくことでようやく、その生活に想像を巡らせることができる。
大変なんだろな、自分にもああいうときがあったな、とかそういう気持ちが寛容さにつながる。
が、他者と接する機会が減ると、自分と違う人達のことは概念でしかない。
すべてが社会記号化して、伝聞で聞いた情報から「〇〇ってやっぱり〜」(〇〇部分は若者、年寄り、子ども、都市部の人間、地方の人間などいろいろ)と思い込みを強くし、対立が深まる。
実際に人と触れ合うと、親切にされることも多いわけで(まあその逆もあるけれど)属性でひとくくりにできないんだな、ということが体験を伴ってわかる。
SNSは街歩きの代わりにはなれない。なぜかというと、結局自分と似たり寄ったりな考えや趣味嗜好の人をフォローして自分のタイムラインを構成しているからだ。
また、基本的に情報として精製されているものについて、人間は興味がなければスルーする。体験として自分の身に降りかかったことであれば否応なく味わって記憶に残るが、情報として加工されるとほぼ無意識レベルで取捨選択を行い、興味がない・不都合な情報の吸収を拒んでいく。
結果、何が起きているかというと、思い込みの強化からくる対立だ。
お互いが顔のない他者、「石を投げられても仕方の無いやつら」「私たちの平和な生活を脅かしている浅はかなやつら」になっている。