書籍「欲望の見つけ方」感想

今読んでいる本の内容が、最近の身の回りで起きているトラブルとも深く関連している気がした。
まだ読み終えていない本ではあるが、広く知られている理論でもあるので、記憶と感情が新鮮なうちに感じたことを書いておく。

今回読んだ本「欲望の見つけ方」

Kindleの電子書籍セールで購入した。
出版社のセールで半額になっていたのでかなり気軽な購入。
タイミングによっては、出版社のセールにポイント還元もつくDMM経由のほうがお得かもしれない。
タイトルからの想像でいわゆるビジネス書臭い内容を期待して買うと、少し「あれ?」となるかもしれない。

ミメティック理論(模倣欲望理論)

本のタイトルはずいぶんビジネス書臭いのだが、内容のほとんどはルネ・ジラールの「模倣の欲望理論」の解説になっている。
(まだ読んでいない部分に著者の新説がある可能性はあるのだが)

ミメティック理論(Mimetic Theory)で検索したほうが色々な言及が見つかるが、以下では、本書内での翻訳に合わせて「模倣欲望理論」と書く。

ここよりまともそうな概要書いてるところ参考リンク
https://academic-accelerator.com/encyclopedia/jp/mimetic-theory
http://rinnsyou.com/archives/1345

色々なところに解説があるので詳細は省くが、だいたいのところ

  • 赤子が親のマネをして生き方を学ぶように、私達は模倣でしか欲望を見つけられない
  • 私達が何かを欲しい・やりたい!と欲望するとき、それは誰か(モデル)の模倣
  • 対象を欲望するのではなく、他者(モデル)の欲望を真似ているため終わりがない

ということらしい。

ここでいう欲望は食欲や睡眠欲のような根源的欲求ではない。
そういった生物として生きるための欲求が満たされた後に欲しくなるもののことだ。

「しかし、生き物として基本的な欲求が満たされたあと、私たちは人類の欲望の世界に足を踏みいれる。そして、欲しいものを知ることは、必要なものを知ることよりもずっと難しい。」

ルーク バージス. 欲望の見つけ方 お金・恋愛・キャリア (p.32). 株式会社 早川書房. Kindle 版.

モデル1 雲の上の人たち

本書内では[セレブの国]と表現されているが、現代ではセレブに限らないよなぁと思ったので、より日本人が直感的に理解できる表現としてここでは[雲の上の人たち]とする。

雲の上の人たちは、宮廷に出入りするような貴族、成功した会社の社長、大金持ちで完全無欠なインフルエンサーみたいな人たちのことだ。
決して手が届かない存在で、自分はその人の「圏外(一瞥もされない存在)」だとわかっているような人たちだ。

人々はこのモデルのことを堂々と真似する(インフルエンサーが持っているバッグは素敵なのでほしい)(王族御用達ブランドはなんだかよさそう)。
そして、自分が彼らの真似をしていることを恥ずかしくは思わない。

この雲の上の人たちの欲望を模倣しているうちは、比較的平和だという。
欲望の模倣ではあるが、向上心や成長に繋がってポジティブな模倣でいられることもあるからだ。

会ってみれば普通の人

[雲の上の人たち]になるためには、素性を隠してミステリアスに振る舞うのも有効だ。
決して全容を見せないことで「あの人にはなれない」と思わせることができる。

当然ながら、それまでは雲の上の人だと思っていたが、実際に対面することで認識が変わり「同じ層の人たち(モデル2)」に分類し直されることもある。

個人的な感想だが、元々同レベルと認識されていた人よりも、何かの拍子に雲の上から引き下ろされた同レベルの人の方が欲望のモデルとしては危険な気がする。

手の届かない存在と思っていたために見て見ぬふりできていたマイナス感情が噴出する上に、空間的・社会的な壁が無くなれば向こうからもこちらを認識できるからだ。
一気にネガティヴな欲望の模倣の繰り返しに巻きこまれやすく危険そうである。

モデル2 同じ層にいる人達

モデル2はもっと過酷でどろどろした模倣になる。
同じ層にいる人達、つまり学校のクラスメイトや友人が持っている・ほしいと言う・いいね!したのを横目で見つつ、同じことをする模倣だ。
私はSNSで親しい・距離感の近い知り合いもここだと考えた。

なぜそれが欲しくなった・やりたくなったかというと、自分と同じレベルの人がそれに興味を持っているからだ。
同級生が棚から手に取った商品を自分も手にとってみるような状態、友人の好きな人を好きになる状態。(シェイクスピア『ヴェローナの二紳士』)

自分でも自分が意識している人間(モデル2)に気づいていないことも多い。
公然とは真似られず、友人の真似をしていることを認めるのも難しい。

この模倣では、雲の上の人たちとは異なりお互いを隔てるものはない。互いがひたすら意識し合う・模倣をすることになる。
ある程度までその模倣合戦が進んだときに起きるのが差別化(相手との違いを生み出そうとすること)だ。
差別化のための戦いは仲の良かった友人同士を引き離し、犬猿の仲にし、互いに「あいつとは違うんだ」という意識を植え付けることになる。

形而上的欲望

このような欲望はその物質そのものがほしいわけではないようだ。

特定の もの ではなく、新しい生き方やありかたを求めて奮闘することを「形而上的欲望( metaphysical desire)」と呼ぶ。

ジラール は、 すべての真の欲望 ─ ─ 本能的なもののあとにくるもの ─ ─ は形而上的であるとした。 人間は常に物質の世界を超えた何かを求めている。

ルーク バージス. 欲望の見つけ方 お金・恋愛・キャリア (p.108). 株式会社 早川書房. Kindle 版.

私達が新しい洋服を欲しがるとき、本当にほしいのはその洋服を着ることで訪れるハッピーな新しい未来だ。
そのハッピーで新しい自分は、幸せそうで斬新な生活をしているインフルエンサーだったり、恋人と仲がいい友人だったりするわけだ。

「ほしいと思わせるためにはそれを手に入れたあとの素敵な生活を描け」
少しでも仕事でマーケティングについてかじった人であれば、ピンとくる話だろう。

誰もが無意識のうちに、新しく何かを手に入れれば素晴らしい自分になれることを期待している。

「やりたいこと」の形而上的欲望

私達が「やりたい」と欲するのも形而上的欲望のための欲望なのだろう。

たとえば「筋トレをするとき真に欲しているのは筋肉ではない」というのがマーケティングの本では定番だ。
筋トレをして健康になってバリバリ仕事をこなす自分や、異性に魅力的だと思われる自分になりたいから筋トレをするのだ。
だから、読者に筋トレ用のお高い健康器具を買ってほしいなら、そういう未来をちらっと見せるのが定番だ。
(とはいえ、なにか行動することで変わる未来もあり、それはポジティブな模倣として人のモチベーションにもなる。私も健康器具を買った。)

新しい趣味を始めたりイベントをやるのも、そこにいる先人(モデルとその対象)の模倣だ。模倣欲望理論ではそういうことになる。
それを始めることで今より楽しくいられる自分や、新しい世界に触れる自分を想像できるから、我々はなにかに挑戦する。

そのとき、模倣したのが雲の上の人たちではなく自分と同じ生活レベルの人(モデル2)であれば問題が起きる。
それはモデル2の説明に書いた通りの模倣と差別化の無限の競争だ。

とくに、SNSは実際以上に物事を楽しそうに・順風満帆そうに膨らませて見せる性質がある。
誰もそこにあったトラブルについて公の場には書かない。
否応なしに目に入り想像してしまう理想の姿は、いつまでも自分が触れられない世界であるがゆえに、人を苦しませる原因になりそうだ。

満足できなかった人はどうすればいいのか?

では、どうすれば期待通りにいかなかった人(模倣したが理想の自分がそこになかった人)を満足させることができるのだろうか?
模倣欲望理論に基づいて考えると、どうやっても満足させることはできないようだ。

なぜなら、その人が本当に真似したいのは友人の趣味ではないからだ。
その人が真にほしいと思っているのは、その友人の周りにある温かく信頼に満ちた人間関係や楽しい時間である。

しかしそれは誰もがすぐに手にできるものではない。
また、形而上的欲望はあくまでも模倣者の想像であるため、実在するかどうかすらわからないのだ。
完全無欠で幸せそうに見えたインフルエンサーですら突然自死することを思い出してほしい。

注意してほしいのは、模倣しているのがモデル2の同じ層にいる人達の場合、ただ別の趣味を始めればこの模倣から開放されるわけではないということだ。

自分では認識するのが難しいかもしれないが、自分がモデルにしている人のことを完全にシャットアウトしない限り、それはまだ無限の差別化行動の一つにしかならない。
不健全な模倣関係に陥ってしまったモデル2の情報から自分を遠ざけて、完全に意識しないで済む環境にいる必要がある。

崇高なる猫様

この本では、突然猫が崇められる。私も猫を称えます。

猫を称えると猫好きの読者が喜ぶから称えているのか、著者が猫好きなのかはわからない。
脚本術の鉄則「SAVE THE CAT(猫を救え!)」みたいなものだろうか。読み手が共感するから、話が進めやすくなる?

その猫崇拝コーナーによると、模倣欲望理論的にも猫は素晴らしい生き物だ。
猫は、人間と同じようには欲しがらない。犬とも違う。
おやつをあげたって、猫用のふわふわクッションを献上したって、気にいらなければ無視する。
人間の基準とは違う彼らなりの審美眼があり、一説によると30万円のキャットタワーよりそれを梱包していたダンボール箱のほうが素晴らしいそうだ。
血統書付きの猫が使うふわふわクッションを猫たちはとくに欲しがったりはしない。

このような模倣の渦の外側にいる存在を人間は羨み、魅力的だと感じるらしい。

たしかに、新進気鋭のアーティストの斬新なデザインが惹きつけるのはそういうことなのか?
詳しくはないが、誰の模倣でもないという響きは確かになにかいいものに思える。

終わりに


この本はこの話の時点でまだ半分程度だ
その後の話の運びとしては、専門家の介在によって「それは本当に欲する価値があるものなのか」を知り我々は適切な欲望を判断できるようになる、という話へと繋がっていった。

たとえば、専門家のカウンセリングを受けることで自分の欲望の裏にある形而上的欲望を知る。
そして、それが手に入れる価値があるものか?手に入れられるものなのか?を吟味することも、消費と娯楽に溢れた現代社会では必要だろう。

何にせよ、常にインターネットと繋がってSNSで他者の欲望を見続けることになりがちな私達は、20年ほど前の生活と比べると格段に気をつけなければならない。

常に誰かのモデルであり、常に誰かをモデルにしている。
それ自体は大昔から変わっていないように見えるが、その相手が四六時中見えて、なおかつ双方向でやりとりできてしまうからだ。

まだ全部読んでいないのに感想を書き始めるのはどうかと思ったが、最近聞いたり体験したりした人間関係や欲望にまつわるトラブルにぴったりすぎたので、勢いに任せて書いてみた。
こういうのは自分の体験に落とし込めるときの方が理解しやすいので、自分のために咀嚼する目的だ。

いくつか周辺分野の本を読んでいるから、前提が共有できてすんなり読めた側面はあるかもしれない。
例の提示がやや多すぎる気はするが、なかなか抽象度の高そうな理論を現実に落とし込んで解説してくれているのでおすすめしたい。

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