私は写真嫌いではあるが、醜形恐怖症ではありません。
鏡やショーウィンドウに映されるのが怖いとは思わないし、むしろ自分をよく観察することを厭わないタイプです。
「ではなぜ写真が嫌いなのか?」と聞かれると、とてもややこしい考えが根本にあるとわかったので整理していきます。
現存在
まず、前提としてハイデガーやショーペンハウアーによる現存在への解釈を参考にしています。(『存在と時間』『自殺について』)
やや難解なのでわかりやすい解釈を一部引用します。
ハイデガーによれば現存在は未来に向けて可能でありうる自分を存在させようとして(誤解を恐れず言い換えれば、将来的に自分自身がなりたい自分になることを実現させようとして)生きる存在者であると同時に、自らの意志によらず、ある世界の中にある特定の在り方で存在させられてしまっている存在者でもある。
参考:過労自殺の実存主義的分析と対応策に関する試論
私は自己の存在についていろいろ考えた結果、他者に観測されることで自分は存在し、自分の意識が消滅すれば世界も消えるのでは、と考えました。
写真がいつまでも人を頽落させる
しかし、ここに写真というものが加わり、さらに誰かのストレージへの保存、インターネットでの公開が加わるとどうでしょうか。
本来は私の意識が消滅し肉体が火葬されるとともに、私は誰からも観測されなくなるはずです。
これなら私の世界の消滅と私の消滅がほぼセットになっているので、とてもいいですね。
誰かが私の写真を撮影した場合は違うことが起きます。
その写真やデータがある限り、私の意識が消滅しても誰かに観測されてしまうからです。
しかし、自分の未来を気遣うことをやめ、意思を失った時点で本来的な自分は消滅しているため、非本来的な自分のみが観測されるのではないでしょうか。
上記の解説の中でいうと『自らの意志によらず、ある世界の中にある特定の在り方で存在させられてしまっている存在者』の部分、頽落した非本来的な部分だけが残るということです。
つまり、写真という世界の中に存在させられ続け、それは自分を構成する多面性の中の非本来的な面(自らの意思によるものではない)ということになります。
加えて、相互の観測ではなく一方的であるために、私は観測者の社会通念に無抵抗で当てはめられて評価され続けることになります。
それは観測者を中心とした世界にさらに頽落させられていくということではないでしょうか。
そもそも、この頽落的な現存在は世の中の規定に従って自分の在り方を変えている状態だと読み取りました。
衝動による死ではなく論理による死を望む人の多くは、
頽落やさまざまな不条理を嫌い、本来的な生き方を選べないことに苦悩し、幸福と不条理を並べて苦労するまでもないと判断したのではないでしょうか。
それなのに、非本来的な自分のみが生き続けていくというのは大変な不条理です。
人の記憶というのは非常に曖昧です。
写真は最近まで時間によって劣化するもので、それが人の記憶のような曖昧さをもたらしてくれていました。
現在のようなデータ形式になり、関知しない場所でのストレージへの保存と再アップロードが繰り返されると、永遠に電子世界を漂流することになります。
私はそのような形で自分の存在の一面のみが切り取られていくのが嫌です。